故郷への旅、記憶への旅
家帰り途中で、父と一緒においしい西洋風中華料理を食べている時のこと。
これは、五歳の僕にとって、中国に関する初めての経験。
いや、僕は、右に引き合いに出したアジアで育ち、アメリカ生まれの著者と違って、今まで、アジアに関するもの自体を一生のうちにけっして意識したことがない。
だからただしくは、いま記録しようとしている思い出が、アジアに関するものとして生まれて初めて味わったものと言うべきなのであろう。
僕は右手に、僕には解けない謎を握っていた。
僕は父に質問した。
「パパ、なんて書いてあるの、ここに?」
言葉はなんて不思議なものだろう。
「ちょっと見せて。へえぇー、わからん」と、三十二歳になろうとしている父は言った。「まあね、その綺麗で優しそうな店員さんに聞いてみろ」
ある時まで、スーパに併設されていた「food court」で父と僕は中華料理を食べながら話し合っていた。食事を作ってくれた人は何歳か、何省からオーストラリアに移民したか、いつの世代に属されているか、全て二人は分からなかった。
父の言葉に従い、僕はくしゃくしゃになっていた割り箸の包み紙を取り、席から立ち上がった。
周りをきょろきょろと見回した。今、見たじゃないかっと漠然と思いながら席を離れ、レストランの中を歩き回りだした。
そうすると、五歳の僕には読めない王維(オウイ)の詩が飾ってある壁の後ろから店員さんが突然、現れてきた。
空山新雨后,天气晚来秋。
明月松间照,清泉石上流。
竹喧归浣女,莲动下渔舟。
随意春芳歇,王孙自可留。*
僕と店員さんのあいだの距離はもう4メートルばかりに近づいている。僕の目と店員さんの目が合った。店員さんは私にひとことも言いかける前に、小さな五歳の私の手にあった割り箸の包み紙を取り出した。世界中にはどこでもある別の外国語と同じように見分けられない何かが大きく、紙面に暗緑色文字で書いてある。
若い女性の店員さんは私を見て割り箸の包み紙を見て、それからまた僕を見る。
「これ…どういう意味?」と僕は言う。
「ええ? 中华でしょうか? ちょっと見せて」
そうして店員さんに渡すと、
「ああ、中って中心の、ね、中央とか、あとは华って綺麗でしょう、華やかとかね」
この二つの文字の中には、別の世界への道がビンビンと照らしだされていた。
[华(華)]
美しさ。
二つの言葉。中心の中と華やかの华。
二つの国と二つの言語。
風鈴のように、どちらも心の中で響いている。
* 人けない山に雨が降ったばかり、
夕べともなるといっそう秋の気配。
明るい月が松林の間に照り輝き、
清らかな泉が石の上を流れる。
竹がざわめいて、洗濯の娘たちが帰ってゆき、
蓮の葉が動いて、漁り舟が流れを下ってきた。
春の芳しい草が枯れたとて、かまわない。
この若様はこのまま、山中に留まるほうがいい。
(山居の秋瞑、王維(唐の詩人))